場所:

ギリシャ共和国アテネアクロポリス−スパルタレオニダス像

日時:

2012年9月28日〜29日AM7:00スタート

情けないことに母が死んでからというもの、足に力が入らなくなってしまい、1km6分で走れなくなってしまいました。
おまけに、無理して走った萩往還と隠岐100kmでは、肉離れを起こしてしまいました。
それでも、「申し込んだ大会はちゃんと走りなさい」という母の遺言があるので、私は走らなければならない。
特にこのスパルタスロンは、「もう一度完走するのを見てから死にたい」と言っていたので、
藁をも掴んでも完走しないと。

練習不足で記録は、狙えないのでとにかく「完走」を目標に計画を立てました。
ヘラスカンまでは、1km6分22秒という今の限界速度を何とか保ちます。
後は、壊れないことを最優先に無理をせずに走ることを徹底しました。
しかし、この日、無情にも天候は過去最悪で何と36℃以上の高温で湿度もかなり高めになってしまいました。

夜のライトは、今年はうまい具合に日が落ちる前に受け取れました。
暑さで思いがけず遅れた人達は、ライト無しでしばらく走るはめになってしまった様です。
ネメアに着くと、予定より1時間遅れになっていたもののまだ、制限時間1時間半の余裕はありました。
それからは、1時間遅れを前提に予定に従った走りをすることにしました。

長い上り坂が続いて、かなりきつくなってきたけれども、「とにかく山は越えたい」と思って粘って歩きと走りを繰り返していました。
そして、ついに瓦礫の山を越えることに成功しました。
次の日も暑いでしょうか?
幸いなことに、朝の9時までは、山の陰に入って涼しいうちに走ることができました。
さあ、問題は2年前に肉離れした、最後の地帯です。

まず、足が壊れないように慎重に走ります。
変に早歩きだと、2年前の様に肉離れする危険があります。
歩くより遅い超スロー走行で坂を登って行きました。
また、暑くなってきました。もう、意識も無くなって来ました。
69のCPで、5分だけマッサージを受けて、最後の上り坂を歩いて登りました。
そして、残りあと10kmになったとき、

突然、腰が、グキっとなって、転倒。
「ああ、ここまで来て終わりなのか?」
絶望の瞬間が、訪れました。
何か、母が呼んでいる様な気がして、正気に戻って、
思い直して、「もしかしたら、腰を曲げたまま騙しながらならまだ行けるのではないか」
と考えました。
とにかく、超スローで引きずる様に走り始めると、スパルティの街が見えてきました。
これで、何とか気力が回復しました。
腰を落として曲げたまま、不格好な走りですが、そこそこスピードも出て、
ゴールまで行ける事を確信しました。
最後のエイドからは、親切な現地の人に自転車で伴走して頂いたので、さらに楽になりました。
そして、感動のゴール。
ゴール後は、日本語を話す親切なギリシャのお姉さんに点滴を受けて生き返りました。

ホテルに着くともう、動けなかったので
夕食は、無しでした。
でも、次の日、恒例の昼食会では、美味しい料理が出たので大満足です。

何か、妙に盛り上がって、珍しく完走を逃した能登さんが踊っていました。
足が言うことを聞かないので私は踊れませんが。

これで、母の遺言は、果たせました。
何だか出来すぎた童話の様になってしまいました。

あるところに、母と子が住んでいました。
子の楽しみは、マラソンで、特に1年に一度ギリシャで245kmも走る大会を毎年楽しみにしていました。
母は、子がいろいろな大会で活躍するのを楽しみにしていました。

ところが、ある日、母が末期ガンを病んでいて、もう長くないことが、医者から伝えられました。
子は、もう、今年のギリシャは諦めたと言いました。
母は、言いました。
いいえ、貴方の人生なのだから、今年もちゃんと走って来なさい。
子は、困惑しました。病院の付き添いで何日も練習が出来ないのに走れるのだろうかと。
そして、母は、「まだ生きたい。もう一度お前がギリシャでゴールするのを見たい」

と、言いながら息を引き取りました。
そして、運命の日は来ました。
その日の大会は、過去最悪の高気温で、子の仲間たちも次々にリタイアしていきました。
絶対完走したいと走っていた子も、残り10kmでついに倒れます。
しかし、母の声が聞こえて来ました。
まだ、走れると。
そして、子は、再び走り続けゴールしました。
日本に帰った子は、亡き母に完走を報告して、祭壇に完走メダルを飾りました。

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